あたりまえ、ではない毎日。

私がこのブログを始めた理由は、息子がサッカーにのめりこみ、それにつられて私もサッカーから沢山の事を学び、息子に伝えたいことを何かの形で記録して置きたい。と言う考えからでした。 私の人生は失敗だらけで、いつも手探り状態で今思えば前にも進んでいなかった時期がしばらく続きました。若い勢いだけでアメリカに渡り、もがき苦しんで自分を探し出そうと孤独な世界へと自ら選んでは、挫折感に押しつぶされる弱い自分を見せつけられて生きている意味など知りたくもありませんでした。

でも、アメリカでの生活はその様な病んでいた自分には合っていたのかもしれません。色々な人種や考え方の人々と英語で会話が出来る様になると自分の人生と同時進行で、想像すら出来なかった様な世界が、ごくあたりまえの様に色々な国の人からの話から知らされ、自分の世界観の小ささに、自分で微笑んでしまいました。人は孤独に生きようとしても何も得られない、人との関わりから得られることの方が大きく沢山ある。とこの時に感じました。

妻と出会い、しばらくしてアメリカの同時テロが起きました。妻はこの事件の前年まで、あのツインタワーの地下で仕事をしていましたし、私も半年前まで同じ地区で仕事をしていました。あのビルが二つとも崩れ落ちる光景はこの世の物とは受け入れ難い程の衝撃でした。日本では、想像をはるかに上回る津波に一瞬にして死の世界が現実となりました。死と言うものは自分の意思には関係なく常に隣りあわせなのだと思い、息子を授かり、家族を持った今、この限られた時間への価値観が変わりました。崖っぷちの生活でも幸せを感じて来れたのも、子を授かると言う奇跡が私たち夫婦に起こったからです。子供と真剣に向き合うとさまざまな事に気付きます。そして、いつしか自分自信と真剣に向かい合う様になります。そして最後は個の状態で旅立ちます。今こうして、私達に関わりのある人達に感謝しなくてはならないと自分に言い聞かせます。

こう考えると、毎日の時間がとても貴重に思えてきます。あたりまえの状況状態など有りません。私は、あたりまえの様に明日また陽が昇り、私の前で当たり前の様に妻と息子が笑っていられる時間が来るとは限らない、と言い聞かせます。

息子に伝えたい事はまだ沢山有ります。未完成な私自身、息子と一緒に成長して行ける様に願うばかりです。

節分の今日、この節目も無事に笑顔でいられる様に、常に感謝の気持ちを持ち、荒い自分の気持ちを落ち着かせられる様、努力あるのみです。

子育てとサッカー

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